"Take a peek at the journey"
人生を共に旅する服
背景の異なる人たちが自然と集まり、その輪が広がっていく
KAJA
ココでは、そのコミュニティで躍動する人たちを通して
旅先の“衣”場所を探っていく
明日も、新しい出会いがあることに
感謝
First Trip
OSAKA
NISHINARI
SHINGO★西成
1972年5月9日生まれ。
大阪府西成、釜ヶ崎の三角公園近くの長屋で生まれ育つ。地元のオッちゃんや、オカンの「アンタはやったら出来るんやから」という言葉に後押しされ、30歳のときに脱サラしてラッパーに。
自らの体験を軸に、独特な“間”と“しゃべる”ようにラップするスタイルは、唯一無二。アンダーグラウンドに根を張りながら、その歌は、美空ひばりさんばりに、心をポッとあっためる。
KAJAが生まれた地
大阪 / 西成区
“LET’S GO”という掛け声を表す名を冠した、コミュニティブランド『KAJA』。大阪・西成区を拠点に活動を続けていた、ガレージサーフショップに端を発する。そのオーナーにして、現在は『KAJA』のマネージメントや、西成のまちづくりを精力的に行う、梅原ジヌ。本連載第一回目は、誕生の地にして氏が兄貴と慕うラッパー SHINGO★西成さんについて。
梅原ジヌ(以下ジヌ):僕が高一くらいのときに、先輩で絵描きのBOXER JUNTARO君が手掛けたSHINGOさんの『今に見とけよ』てゆうイラストを目にしたのがきっかけで。その後、『ゲットーの歌です(こんなんどうDeath?)』を初めて聴いて、同じ西成にこんなイケてる人おんねやって。当時、地元を大切にすることを教えてくれる先輩、おらんかったんですよ。
SHINGO★西成さん(以下SHIOGOさん):<人が死んでいる~、頭血出てる~、うめきが聞こえる~、そばで歌ってる~>ていうのが歌える環境やったからな。貧乏暮らししてたけど、不器用でよかった。失敗や挫折が原動力となって、俺は今生きてるなぁって再確認できてるから。音楽やまちづくりやいろんな生き様を見てもらって、お互い“生きる”とは“信頼”の積み重ねを実行してるって感じやな。
ジヌ:僕のまちづくりの活動も、常に見守ってくれてますもんね。
SHINGOさん:チンドン屋とかな!
ジヌ:街の味を残していくことが、街に雇用を生む。そういう意味ではしつこくやり続けてます。
SHINGOさん:あれは、残さなあかん文化やからな。
ジヌ:傍から見たらどうなんか知りませんけど、ムダ金じゃなく生き金やと思ってます。逆に、二人で変えたことで思い出に残ってるのは、看板づくりですね。当時、お店の看板を出してたんですけど、流れていく人の動きを止めるような待ち合わせ場所にしたいって、なんとなく思っていて。
SHINGOさん:渋谷がハチ公なら、西成はSHINGO、やろ、って(笑)。
ジヌさん:そうそう(笑)。確か2011年でしたね。
SHINGOさん;東日本大震災が起きたとき、日本でどこよりも早く“がんばろう日本”っていうメッセージを出したかってん。それで看板を探してて、ちょうどタイミングよくジヌと話し合ってな。1995年の阪神淡路大震災のとき、オリックスバファローズが“がんばろうKOBE”ってスローガンを掲げてたのを21歳くらいのときに知ったのもあったし。うん・・・“がんばれ”じゃないねんな。“がんばろう”やねん。
ジヌ:そのときは、“負けない”というスローガンでやりましたね?
SHINGOさん:せやな。橋下 徹さんが市長選挙に出るときでもあって。ギャグやん?(笑)。だから俺もなんかしたいなって思って、無所属の議員さんのポスターみたいに白のワイシャツ着て“負けないっ”って。最初、地元のおばちゃんらは“ハゲのシャツ着た高貴なお坊さんや”と思ったらしく、拝むっていう(笑)。ギャグやろ、ホンマ!
ジヌ:・・・ギャグすね(笑)。
日本一暴動の画が撮られたストリートの交差点で、犬を見張るかのように掲げられた看板。出所した人たちが見上げると、最初に目にする言葉でもあった。
コロナ禍のさなか、2020年の7月28日(ナニワの日)に現在の看板へ。
“負けない”から“ブレない”に変更された強い覚悟を感じるスローガン。
選挙ポスター風の写真から、音楽関連のデザインワークを数多く手掛けるアーティスト、NOVOLさんのカラフルなアートに。
西成の待ち合わせ場所にして、日本中へ力強いメッセージを放つパワースポットなのだ。
SHINGOさん:ジヌには、これからも“自立”じゃなく、“自走”していってほしい。周りを巻き込んで、な。
ジヌ:SHINGOさんの『ここから・・・いまから』のフレーズ<自分たちの街は、自分たちでつくる。街をキレイに、心をキレイに>を忘れずに、これからも頑張ります。
残すべきところと、変えるべきところ。そのBPMが似ている二人が目指す、西成のまちづくり。
これからも、KAJAの最重要コミュニティとして、追いかけ続けていきたい。
【SHINGO★西成さんの“衣”場所Q&A】
Q1:西成でのアクションを教えてください。
A1:まちづくりでいうと、『西成WAN』。“落書きをアートに、街を美術館に。セピア色になっていく街を色付けしよう”っていう想いでやってんな。人間味のある街のアクションから生まれたアートが、カルチャーになってくれれば。
後、当たり前のことやけど俺はラッパーやから、これからも歌っていく。
自分たちの意思でな。
歌わされるんじゃなく、歌ってる。
リスクを背負ってでも自分たちのやり方で100%やりきること、やな。
“世の中の人をみんな幸せにします”ってヤツはウソやで。だって育ってきた環境も納得のいく価値観もみんな違うんやから。だから、“自分が出会ったヒトを幸せにしよう”と思ってる。
Q2:SHINGO★西成さんにとって、西成とはどんな街ですか?
A2:“人間ムキ出しのまち”。感情を出さないのがいい生き方ていうか、COOL、みたいな感じもあるけどそうじゃないと思うねん。こんだけ貧乏で訳ありな街やと思われてるかもしれんけど、日雇いの仕事帰ってきたオッちゃんが、酒飲んで一人焼肉食うた後、近所のガキに会ったら1000円くれるねんで! 他の街じゃ下品やろけど(笑)。ガキのころはオッちゃん神や!って思ったな。後はそれをどう使うか考えた。今ガキに伝えなあかんのは判断力。尖らせたら決断力やけど。言われたままやる、じゃなくてその先を教えてくれる街やな。
西成で育って一番学んだことは、“分け分け文化”。隣の家と25年間飯のメニューほぼ一緒やってん! ウチがエビフライ作ったら、隣はサラダみたいな。貧乏やったけど、いつも玄関には花があったしなぁ。近所のおばちゃんが買うてきたのを分けてくれて。“向こう三軒両隣”。チームやねん。“しんどいのも、楽しいのも、分け分けする”。それが仲間。「アイツは愛想無いわ」っていうヤツは、楽しいことだけ、分け分けしてただけ。それは仲間やなくて、知り合いやで。勘違いしたらあアカン。
アッ! そういやこの前、かわいいよぼよぼのオバアちゃんが段差あげられへんとき、もっとよぼよぼのオジイちゃんが「ワシやったろ!」ゆうて。でも近づくまでまあまあ時間かかるっていう(笑)。その光景とかみたら、な。そんで、ちょうど若いヤツが通ってスーッと助けてスーッといったる、みたいな。この3ショット、最高ちゃう?
この街にはたくさんの喜怒哀楽が落ちてるから、それを見落とさず拾って楽しむ。それを地元に持ち帰って、パワーを繋いでくれたらエエなぁ。
Q3:地元を離れたいと思ったことはありますか?
A3:1日に何回思うかって?(笑)。そんなん4、5回思うって!(笑)。夜中1時に、素人のテレサテン聞こえてくるし、一青窈の“100年続きますように~”なんて、もう100回聞いたしな(笑)。
Q4:ファッションとはどういう存在ですか?
A4:表現。
西成のオッちゃんやオバちゃんらの着こなし見てたら、あー、自由でエエなって。パリコレよりおもろいで!
Q5:SHINGO★西成さんにとって旅とは?
A5: 新しい自分の発見。
人生=旅、やろ?
RAPPER
OSAKA
HANNAN
Second Trip
千代 幸和
ラーニングフィールド代表
1974年生まれ。大阪府阪南市尾崎町という海沿いの町で育つ。地元の先輩が波乗りをする光景が日常で、自身も中学3年のときからサーフィンを始める。
19歳から自立するため実家を飛び出し、世界の波を求め約15年にわたって海外を放浪する。そのなかでも、ノースショアのヒマラヤと呼ばれるアウターリーフで出会った、30分ほどパドルアウトしたところに現れる“生死をさまよう程の強烈な波”は忘れられないという。
現在は地元に古民家を構え、農業体験を軸とした「ラーニングフィールド大阪」をはじめ、耕作放棄地などを取り扱う不動産業や飲食店など、生まれ育った地に新たなコミュニティスペースを築くべく日々邁進している。ちなみに、千代さんの“衣”場所「ラーニングフィールド」でのユニフォームは、KAJAのCOTTON NEP SHIRTS。
【千代幸和さんの“衣”場所Q&A】
Q1:地元でのアクションについて教えてください。
僕が生まれ育った尾崎町からすぐの自然田エリアで「ラーニングフィールド大阪」という農業体験ができるコミュニティスペースを2019年に作りました。
そもそも始めたきっかけは、僕が幼少期から見ていた田園風景がどんどん失われていくのを目の当たりにしたからなんです。失われた場所を取り戻すのって、本当にとてつもない時間と労力がかかる。だから、まずは自分の出来る範囲で、微力ではありますが、あのころの原風景を後世に残していきたいと思ったんです。後は、一緒に活動しているサーファー兼ファーマーの田中宗豊など、仲間の存在が背中を押してくれたのが大きかったですね。
Q2:「ラーニングフィールド」を通して学んだことはありますか?
もうずっと、学びの連続ですよ。はじめは、土も触れなかったり虫も無理だった人が、どんどん自然と触れ合っていけるようになる姿をみると感動しますし、人の成長を肌で感じ取れるのは、他では味わえない生きた学びです。
Q3:「ラーニングフィールド」の“これから”についてお聞きしたいです。
まずは、継続していくこと。そのなかで、少しずつ全国各地に「ラーニングフィールド」のような居場所を増やしていきたいんです。ココに来てくれる方々って、農業に興味があっても容易く田畑を買うことができないので、僕がそれを準備してあげて、それぞれの地元でココと同じような活動ができるようになればと。そうすることで、耕作放棄地の減少にも繋がりますしね。
また、今年の春から大阪農業大学の短期プロ農家コースに通っていて、そこで果樹について学んでいます。お米だけじゃなく、育てていく農作物の種類も徐々に増やしていければなと思っています。
Q4:地元ってどんな存在ですか?
命を繋いでいく場所。
10年前くらいに、あることがきっかけで地元を離れようと思ったことがあって。でも、みんなの気持ちが深く伝わる出来事がたくさん起きて、そのおかげで元気になって、今の自分がある。
本当に、地元のみんな、あったかいんですよ。それを示すエピソードはたくさんあります。例えば、バーを経営していた時期があったんですけど、旅から帰ってきて一文無しの状態の僕が釘一本のお金も払うことなくバーを建ててくれたり。昔からお世話になってる「尾崎漁港」の漁師さんは“今日、えー魚獲れたから取りにおいで”ってよく連絡してきてくれるし。
そうそう、地元には「浪花酒造」っていうもう300年以上続いている酒蔵があるんです。阪南市には300年以上続く祭りがあるんですが、それも五穀豊穣に感謝することが根底にあります。じつは、「浪花酒造」さんから「ラーニングフィールド」で収穫したお米で日本酒作らせてくれないかというお話をいただいています。ただ、僕らは根本として製品にすることを目的にしているのではなく、体験を通して何かを感じてもらうことが目的なので、収穫量をやみくもに増やしたりすることは正直考えていません。とはいえ、いつか実現できるように動いていきたいと思っています。自分がこれまで助けてもらったように、これからはより一層地元のためにできることを模索しながら、実行していきたいですね。
Q5:千代幸和さんにとって旅とは?
帰ってくる場所があると、再確認するもの。
そもそも、自分の価値を見出すための一人旅って孤独で寂しいものなんです。でも、そこに身を置くことで自分の根が伸びると思っていましたから。旅をすると、地元のありがたさを、身をもって、深く深く感じることができるんです。
また、ここ「ラーニングフィールド」がだれかの旅先になっていることに気づきました。一人旅をして、色んな人と出会って紡いできたことが、この田んぼで実現している。あの日、自分が目指していた旅先のように、これからも、ここがだれかの旅先であり続けられるようにと願っています。